和洋合奏之図

- 資料番号
- 297
- 作者
- 彭城貞徳
- 年代
- 1903(明治36)年頃
- 大分類
- 収蔵品
「和洋合奏」は現在では耳慣れない言葉であるが、昭和初期にはラジオ放送でコーナーが設けられるほど一つのジャンルとして確立していた。本作品から明治30年代後半にはすでにこの演奏形態が存在していたことが分かる。
彭城は尺八の師範である一方、明治初期にはすでにバイオリンも始めており、その腕前は演奏会を開くほどであったと伝えられている。本作品で描かれている情景は、彭城の自宅等で日常に展開されていた情景であったと思われる。ここに描かれた人物たちは、おそらく彭城の弟子たちであろう。床に置かれた楽譜は尺八のそれであることから、尺八がメインでバイオリンはそれに合わせるといった演奏が行われているのだろう。
本作品では畳の目まで精密に描かれており、それが画面奥に向かうような、いわゆる一点透視図法を意識した作品に仕上がっている。
弟子の徳浪フサによって、本作品の制作年は1903(明治36)年頃と伝えられている。しかし中央の女性、及びバイオリンを弾く女性の髪型が、日露戦争以降に流行した「二百三高地髷」であるという指摘もあり、もしそうだとすると、少なくとも日露戦争のあった1904(明治37)年以降の作品ということになる。
彭城は尺八の師範である一方、明治初期にはすでにバイオリンも始めており、その腕前は演奏会を開くほどであったと伝えられている。本作品で描かれている情景は、彭城の自宅等で日常に展開されていた情景であったと思われる。ここに描かれた人物たちは、おそらく彭城の弟子たちであろう。床に置かれた楽譜は尺八のそれであることから、尺八がメインでバイオリンはそれに合わせるといった演奏が行われているのだろう。
本作品では畳の目まで精密に描かれており、それが画面奥に向かうような、いわゆる一点透視図法を意識した作品に仕上がっている。
弟子の徳浪フサによって、本作品の制作年は1903(明治36)年頃と伝えられている。しかし中央の女性、及びバイオリンを弾く女性の髪型が、日露戦争以降に流行した「二百三高地髷」であるという指摘もあり、もしそうだとすると、少なくとも日露戦争のあった1904(明治37)年以降の作品ということになる。